私は一人納得し、意を決して口を開いた。
「あの実は……」
「それにね真希ちゃん、姫ちゃんはお茶汲みから経験してる女子社員の鑑なのよ」
祥子さんがビールジョッキ片手に、私の肩をバンバンと叩く。思わず言葉を飲み込んだ。
「ええっ? 今時お茶汲みですか?」
真希ちゃんが、信じられないと言った顔でこちらを見る。
「あ、うん。入社当時は、だよ」
「さすがに今はそんなのないよね。今そんなことさせたら、セクハラパワハラだって問題になるわよー」
「ですよねー。私絶対やりたくないもん。あ、早田さんにならお茶入れてあげたいかな」
真希ちゃんは否定しつつも、調子の良いことを言う。
「真希ちゃん現金な子! とはいっても、女は損よねー。頑張ったって出世の道もないんだからさぁ」
祥子さんはビールを煽りながら嘆いた。
私は空いた大皿を店員さんに返しながら、新しく運ばれてきた天ぷらの大皿と交換する。「祥子さん、今はだいぶ緩和されましたよ。女性役職者もいますし」
「そう? だったら姫ちゃんだってそろそろ階級が上がったってよくない?」
「階級って何ですか?」
真希ちゃんの質問に祥子さんは少し声を落とし、早田さんの方をこっそり指差す。
「真希ちゃん、課長になるためにはいくつ階級があると思う?」
「課長の前がグループ長で、その前が主任でしたっけ? だから三つ?」
祥子さんはカバンからペンを取り出すと、割り箸の箸包みに階級を書き出す。
平社員から主任に上がるには、一級から三級までの三段階あり、主任からグループ長に上がるにも試験がある。その上の課長になるためには、試験と上司からの推薦が必要だ。 うちの会社は大手で歴史も古く、今なお昔ながらの階級制度が残っている。「さっすが、祥子さん詳しいですね」
「私は元社員だもの。結婚出産で退職してパートで出戻りしただけだから、会社の事情は割りと知ってるわ。昔は産休育休なんて取れなかったのよねぇ」
「へえー」
真希ちゃんと私はしきりに感心した。
確かに祥子さんの言うとおり、出世に関してはまだまだ男尊女卑の傾向は強い。今はだいぶ制度が整ってきたので、ようやく女性役職者が増えてきた。産休育休の取得率も上がっているみたいだ。
「姫ちゃん安心して。今は産休取りやすくなったし、いつでも結婚出産できるわよ」祥子さんは先程とはうって変わって、キラキラとした目で私を見る。なんだか期待されているようで、落ち着かない。「あの、そのことなんですけど、実は……」彼氏と別れた――と言いたかったのに、突然肩を叩かれて、私は飛び上がるほど驚いた。「ねえ、君たち、今日はお祝い会なんだけど、女子会になってない?」見上げれば、私の肩に手を置く早田さんが、爽やかに微笑みながら立っていた。「きゃあ、早田さん! 違います、いなくなって寂しいって話をしてたんです」真希ちゃんが慌てて否定し、祥子さんと私もうんうんと頷く。「ほんと? 厄介なやつがグループからいなくなって嬉しいんじゃないのー?」「まさか!」「ははっ、僕はちょっと寂しいな。皆と仕事するの楽しかったから。ねえ?」そう言って、早田さんは目配せをした。 私はそれに合わせて軽く頷く。「でも課長として同じフロアにはいるから、またよろしくね。あとは新人の教育は任せたよ」早田さんはもう一人の主賓、大野くんを顎で指す。大野くんのまわりに人はいるものの、大野くん自身はひとりしっぽりと過ごしていた。寂しそう……ではないかな。あまりはしゃがないタイプのようで、楽しいのか楽しくないのか表情からはよくわからない。「それなんですけど、大野さんなんか怖いんですけど」真希ちゃんがズケズケとものを言い、早田さんは苦笑いをした。「そうだね、ちょっと無愛想だよね。大野、こっちこい」早田さんが呼ぶと、大野くんは返事をして表情ひとつ変えずにこちらに来た。 私よりも四、五歳くらい若いのに、いつもクールで落ち着いている。
「大野、もう少し愛想よくできない?」早田さんの言葉に、大野くんはゆっくりと私たちを見回す。「すみません、これでも愛想よくしてるつもりです。結構気を遣ってますよ」物怖じしない貫禄っぷりに感心する。私が入社したての頃は、もっと先輩にペコペコしてたっけ。「堂々としてるわ~」祥子さんも感心したように呟き、私もそれに同調して頷いた。「えっと、何か飲む?」「じゃあビールを」「はい、どうぞ」私は空いている綺麗なグラスを大野くんに手渡すと、まだ残っているビール瓶を探して注いであげた。「どうも」淡々と受け答えする大野くんに、真希ちゃんがボソッと呟く。「姫乃さんにお酌してもらって喜ばない男、初めて見た」「はあ?」「確かに。ほら見て、あっちのテーブルのおじさんたちは羨ましそうにしてるわよ」祥子さんが指差す隣のテーブルでは、年配の男性陣がみんなこちらを見ている。「さすが姫ちゃん」「ちょっと、祥子さん、そんなわけないでしょう。からかわないでください」何だか急に恥ずかしくなって、私は慌てて否定する。お酌くらいで羨ましがるとか、意味がわからない。きっとみんな、大野くんを見ていたと思うの。「なるほど」「ちょっと、大野くんも真に受けないの」大野くんまで感心したように頷くので、私は居心地が悪い。「姫ちゃんも早く結婚したらいいのに」「えっ? いや、あの……」「あ、彼氏仕事に忙しいんだっけ? 大変ねー」「いや、だから……」突然の祥子さんからの話題に、私は心臓が跳ねる。そういえば今日こそ“彼氏と別れた”って言おうと思っていたんだった。 今こそチャンスじゃない?
私が口を開こうとしたときだった。「ふーん。姫乃さん彼氏いるんだ?」大野くんの言葉に、私は箸を落としそうになった。「おっ、新人、さっそく姫ちゃんを名前呼びとは、生意気~!」祥子さんがニヤニヤとからかい、真希ちゃんがうんうんと大きく頷く。「ダメでした?」「いいんですか、姫乃さん?」「えっ? いや、いいよ。名前の方が親しみやすいし、仲良くなれる気がするし。ね、大野くん」私は大野くんに向けて、にっこりと笑った。別に下の名前で呼ばれることくらい、何ともない。現に大多数の同僚が“姫ちゃん”とか“姫乃さん”と親しみをもって呼んでくれるので、むしろありがたく感じている。「いやー、いいよね。姫ちゃんのその笑顔、癒しだったなあ」早田さんが名残惜しそうに言う。「早田さん、私たちは?」「もちろん、君たちもだよ!」真希ちゃんが不満げに言うと、早田さんはすかさずフォローして明るく笑った。そんなこんなで、和気あいあいとした飲み会は宴もたけなわのうちにお開きになった。祥子さんと真希ちゃんと駅で別れ、私は一人電車に揺られる。今日もまた、“彼氏と別れました”と打ち明けられなかった。 このまま私は、彼氏がいると勘違いされつつ結婚適齢期を逃してしまうのだろうか。ていうか、アラサーの時点ですでに結婚適齢期は過ぎているのかもしれないけど。死ぬまで一度も彼氏ができずに、そのままおばあちゃんになってしまうかも。ああ、その前に嘘がばれて会社に居づらくなって、仕事も辞めることになったりして?考えれば考えるほど、よくわからないネガティブな思考になり、項垂れていく。
「はぁー」帰りの電車の中、思わずため息が漏れた。彼氏って、どうしたらできるんだろう? ガラス越しに映るカップルをチラリ盗み見しながら、私はまた大きく項垂れる。 世の中にはこんなにもカップルで溢れているのに、私はいつになったら彼氏ができるのだろう? もう一度ため息が出そうになったとき、タイミングよく電車が揺れ、私はバランスを崩して目の前のガラスへ頭をぶつけた。「いたっ!」鈍いゴチンという音と私の小さな悲鳴は、一瞬のうちに電車内の乗客の視線を集める。恥ずかしさと痛さで頭を押さえながら、隠れるように慌ててうつむいた。「大丈夫ですか?」ふいに声をかけられ振り向くと、そこには心配そうに覗き込む大野くんがいて、驚きのあまり心臓が跳ねた。「……だ、だいじょうぶ」と言ってみたものの、知り合いに見られていた羞恥心で一気に顔が赤くなるのがわかる。「お、同じ電車だったんだね」「姫乃さん案外どんくさいですね。飲み会中、なんか無理してる感ありましたけど、悩み事でもあるんですか?」悩み事ならあります! と心の声が叫んでいるけれど、“どうしたら彼氏ができるのか”なんて事を大野くんに言えるはずがなく、私は愛想笑いを浮かべた。「えっ? いや? ないよ。大丈夫。ちょっと飲み過ぎたのかなー? えへへ」「じゃあ彼氏に迎えに来てもらえばいいじゃないですか?」愛想笑いでごまかそうとしたのに、大野くんはしれっとした顔で心臓に悪いことを言う。「えっ、うん、そうかな? そうだよね? でも忙しいかも?」上手く受け答えができず、しどろもどろになってしまう。 ちょうど駅に到着するアナウンスがあり、私はそそくさと降りる準備をした。「私、駅ここだから、じゃあね」「俺もここです」「えっ?」扉が開くと同時に大野くんが降りる。私もその後を追うように、急いで降りた。 「姫乃さんって最寄り駅ここでした?」 「うん、最近引っ越したんだ」 「ふーん」 電車を降りて改札口まで一緒に歩く。 そこで別れるものだと思っていたのに、大野くんは私の帰り道と同じ道を歩いていく。歩道には桜の木が植わっていて、満開の桜が風に揺れている。 「大野くん家こっちなの? 方面一緒だね。全然気付かなかったなぁ」 といっても、私はまだ二週間前に引っ越してきたばかりだ。近所の事はまだよくわかっていないし
入社して二年目、初めての人事異動でインフラグループに配属された俺は、歓迎会と称された飲み会に参加していた。歓迎会といいつつ、主役は別にいる。インフラグループ長の早田さんが課長に昇進したため、そちらがメインの飲み会だ。軽く挨拶だけ済ませて、あとは静かに座っている。あまり騒ぐのは好きではないし、ちびちびと飲みながら人間観察している方が面白い。たまにおっさんくさいだとかつまらん奴だとか言われるけど、仕方ない。これが俺なのだから。インフラグループには、社内でも美人で有名な朱宮姫乃さんがいる。インフラに異動が決まったとき、まわりから羨ましがられたっけ。確かに綺麗な人だとは思う。いつもニコニコしていて人当たりもよく、仕事もできる。美人なのに可愛い系? ふわっとした雰囲気がそう見えるのだろうか。ちょっと抜けてるとこもある、と俺は思う。つい守ってあげたくなるタイプというのは、こういう人のことをいうのかな。「姫ちゃんあっちの席かぁ」「いつもあの二人に守られてるんだよな。ガードが堅いわ」同じテーブルの先輩たちが、残念そうに言う。俺は通路を挟んだ隣のテーブルを見る。朱宮さんを囲うように、パート社員の本橋祥子さんと派遣社員の近田真希さんが、楽しそうにしゃべっていた。確かに、あの二人に守られてる感あるな……。「ちょっと大野、あそこ混ざってこい」「……僕ですか?」「俺らじゃ無理。きっかけ作ってきて」……って言われても。きっかけって、あれか、あのガードを外して姫乃さんをフリーにさせる、みたいな? んで先輩たちが乗り込む、的な?「……ガード、堅すぎません?」「だから突破口開いて来いって」「いやいや……」ひよっ子の俺に何をさせようとしてるんだ、この人たちは。ニヤニヤしていて、完全に俺で遊ぼうとしている。意地悪な先輩だ。そのとき、すっと違和感なく彼女たちの輪に入っていく人物がいた。早田課長だ。
早田課長は爽やかイケメンタイプで、仕事もできてまわりからの信頼も厚い。とりわけ女性に人気らしいが、男の俺にはその魅力はよくわからない。なんでも、結婚しているのに色気溢れていて、落ち着いた佇まいがいいのだとか。案の定、近田さんが黄色い声を上げている。朱宮さんは……いつもどおりニコニコしている。まあ、俺には無縁の世界だな、と息を吐いたところでふいに名前を呼ばれてそちらを見る。「大野、ちょっとこっちこい」早田課長が手招きするので「はい」と立ち上がった。「おっ、突破口!」いや、違うだろ。ツッコむ気にもなれずとりあえず目で牽制しておく。(先輩だけど)なぜ呼ばれたのか分からないままそちらへ行くと、全員の視線がこちらへ向いた。……ような気がした。「大野、もう少し愛想よくできない?」……いったい何の話だ。そんなに俺、愛想ないかな? そうでもないだろうと彼女たちを見回すと、早田課長に同意の目。「……すみません。これでも愛想よくしているつもりです。結構気をつかっていますよ」いや、本当に。気をつかってるつもりだけどな。早田さんが愛想よすぎなんじゃないだろうか。「えっと、何か飲む?」朱宮さんが聞いてくれたので、あたりさわりもなくビールをいただいた。「はい、どうぞ」「どうも」トクトクと注がれるビール。注ぎ終わると、朱宮さんはニッコリと笑った。
「姫乃さんにお酌してもらって喜ばない男、初めて見た」「はあ?」「確かに。ほら見て、あっちのテーブルのおじさんたちは羨ましそうにしてるわよ」本橋さんと近田さんが目配せする。俺もチラリとそちらを見れば、さっき俺に突破口を開いて来いと言った先輩たちが、チラチラこちらを見ていた。あー、これが突破口ってやつか。「なるほど」感心すると、「ちょっと大野くんも真に受けないの」と恥ずかしがっている。あー、なるほど。そういうとこね。確かに朱宮さんは可愛らしい。人気があるのも頷ける。「姫ちゃんも早く結婚したらいいのに」「えっ? いや、あの……」彼氏がいるのにこの慌てよう。恥ずかしがっているのか?まあ、そういうのも可愛いのだろう。朱宮さんは仕草ひとつとっても魅力的なのだと思う。女性らしさというのか、柔らかい雰囲気が一緒にいて心地いい。隣のテーブルでは、先輩たちが「行け行け」とジェスチャーで伝えてくる。何をどう行けと?だから俺は突破口にはならないって……。でもなんだかこの状況がとても貴重のような気がして、俺はふむと考える。「あ、彼氏仕事に忙しいんだっけ? 大変ねー」「いや、だから……」慌てる朱宮さんに対して、「ふーん。姫乃さん彼氏いるんだ?」と名前で呼んでみた。どうですか先輩、これが突破口ってやつですよ。「おっ、新人。さっそく姫ちゃんを名前呼びとは生意気~!」「ダメでした?」「いいんですか、姫乃さん?」「えっ? いや、いいよ。名前の方が親しみやすいし、仲良くなれる気がするし。ね、大野くん」姫乃さんは嫌がることなくニッコリ笑う。
……ん。なんか姫乃さんが人気あるのが分かった気がした。この人、悪意がないし雰囲気がとてつもなく柔らかい。包み込まれるような感覚に飲み込まれそうになって、はっと我に返った。「いやー、いいよね。姫ちゃんのその笑顔、癒しだったなぁ」早田さんがしみじみと言った。確かに癒しだ。なんだこれ、世の中にはこんな人がいるんだな。こんな、その場にいるだけで穏やかな雰囲気になる人が。不思議な気持ちに、姫乃さんを不自然にならないようにチラチラと観察した。彼女は積極的に話をするタイプではない。皆の話をニコニコしながら聞いて、相槌をうっている。話を振られれば、柔らかく穏やかな声音で話をする。だけどひとつだけ。彼氏の話を振られるととたんに慌てだす。照れているのかと思っていたけれど、なんか違和感。何かを言いたそうで言えない感じ。そこを本橋さんと近田さんが畳みかけていくので、姫乃さんは困ったように笑う。ふと、目が合った。何でもないようにニコッと微笑まれる。「ビールおかわりする?」「あ、じゃあ。どうも」遠慮なくグラスを差し出した。トクトクと注がれるビール。隣のテーブルからの視線も、ちょっとばかり痛い。姫乃さんからの二回目のお酌。「大野くんって飲んでもあまり変わらないんだね」「あー、うーん。多少酔ってるとは思いますけど」「そうなんだ。羨ましい」「そうですか? 姫乃さんは飲まないんですか?」グラスを見れば半分ほどしか減っていない。これが何杯目かは知らないけど。「私は酔うと大変なことになるから飲まないようにしてるの」内緒だよ、とこっそり教えてくれる。え、なにそれ。内緒なの? 俺に教えていいわけ?あざといな。うん、あざとい。だけどこの人、計算してないだろ。自然体だろ。むしろ天然か。真相はわからないけど、そう思うくらいに姫乃さんは自然。自然すぎて思わずドキッとしてしまう。あー、なるほど。これも人気の秘訣か。俺も今、可愛いなって思ってしまった。一緒の空間にいるとペースを乱されそうになる。隣の先輩たちといるよりずっといい。すごいな、姫乃さん。そんな気持ちがバレたのだろうか、俺は先輩たちに呼び戻された。どうやら嫉妬されてしまったらしい。なんでだよ。自分たちが行け行けって言ったくせに。「いいよな、朱宮さん」「マジ癒し。職場に癒しがいるって最高じゃね?
ちょっと飲みすぎたかなと思いながら、電車に揺られる。主賓だったけど二次会はパスした。先輩にどやされすぎて疲れたし。ぼんやり視線を這わせた先に、見覚えのある人が立っていた。姫乃さんだ。同じ電車だったのか。姫乃さんは外の景色を見ながら、時々小さくため息を付いている。何なんだろうか。飲み会の時の困った顔が思い浮かんだ。電車がぐっと揺れる。ゴチっと鈍い音と、「いたっ!」という可愛い声が聞こえた。おいおい、頭ぶつけてないか?「大丈夫ですか?」思わず近づいていた。何かこの人、心配になる。「……だいじょうぶ」顔を真っ赤にしながら、涙目になっている。それ、大丈夫くないだろ。「お、同じ電車だったんだね」「姫乃さんどんくさいですね。飲み会中、なんか無理してる感ありましたけど、悩み事でもあるんですか?」せっかくだし、と思って聞いてみた。軽い気持ちだったんだけど。姫乃さんは目を見開いた。けどすぐにヘラっと笑う。「えっ? いや? ないよ。大丈夫。ちょっと飲み過ぎたのかなー? えへへ」いや、飲んでないだろ。飲んだら大変なことになるって、自分で言ってたじゃないか。「じゃあ彼氏に迎えに来てもらえばいいじゃないですか?」「えっ、うん、そうかな? そうだよね? でも忙しいかも?」あからさまにしどろもどろ。姫乃さん、目が泳いでるんですけど。駅に到着するアナウンスに、「私駅ここだから、じゃあね」と俺に背を向ける。これって照れているわけじゃないよな。彼氏、本当にいるのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、「俺もここです」と隣に並ぶ。「えっ?」めちゃくちゃ驚いた姫乃さんを尻目に、先に降りた。
……ん。なんか姫乃さんが人気あるのが分かった気がした。この人、悪意がないし雰囲気がとてつもなく柔らかい。包み込まれるような感覚に飲み込まれそうになって、はっと我に返った。「いやー、いいよね。姫ちゃんのその笑顔、癒しだったなぁ」早田さんがしみじみと言った。確かに癒しだ。なんだこれ、世の中にはこんな人がいるんだな。こんな、その場にいるだけで穏やかな雰囲気になる人が。不思議な気持ちに、姫乃さんを不自然にならないようにチラチラと観察した。彼女は積極的に話をするタイプではない。皆の話をニコニコしながら聞いて、相槌をうっている。話を振られれば、柔らかく穏やかな声音で話をする。だけどひとつだけ。彼氏の話を振られるととたんに慌てだす。照れているのかと思っていたけれど、なんか違和感。何かを言いたそうで言えない感じ。そこを本橋さんと近田さんが畳みかけていくので、姫乃さんは困ったように笑う。ふと、目が合った。何でもないようにニコッと微笑まれる。「ビールおかわりする?」「あ、じゃあ。どうも」遠慮なくグラスを差し出した。トクトクと注がれるビール。隣のテーブルからの視線も、ちょっとばかり痛い。姫乃さんからの二回目のお酌。「大野くんって飲んでもあまり変わらないんだね」「あー、うーん。多少酔ってるとは思いますけど」「そうなんだ。羨ましい」「そうですか? 姫乃さんは飲まないんですか?」グラスを見れば半分ほどしか減っていない。これが何杯目かは知らないけど。「私は酔うと大変なことになるから飲まないようにしてるの」内緒だよ、とこっそり教えてくれる。え、なにそれ。内緒なの? 俺に教えていいわけ?あざといな。うん、あざとい。だけどこの人、計算してないだろ。自然体だろ。むしろ天然か。真相はわからないけど、そう思うくらいに姫乃さんは自然。自然すぎて思わずドキッとしてしまう。あー、なるほど。これも人気の秘訣か。俺も今、可愛いなって思ってしまった。一緒の空間にいるとペースを乱されそうになる。隣の先輩たちといるよりずっといい。すごいな、姫乃さん。そんな気持ちがバレたのだろうか、俺は先輩たちに呼び戻された。どうやら嫉妬されてしまったらしい。なんでだよ。自分たちが行け行けって言ったくせに。「いいよな、朱宮さん」「マジ癒し。職場に癒しがいるって最高じゃね?
「姫乃さんにお酌してもらって喜ばない男、初めて見た」「はあ?」「確かに。ほら見て、あっちのテーブルのおじさんたちは羨ましそうにしてるわよ」本橋さんと近田さんが目配せする。俺もチラリとそちらを見れば、さっき俺に突破口を開いて来いと言った先輩たちが、チラチラこちらを見ていた。あー、これが突破口ってやつか。「なるほど」感心すると、「ちょっと大野くんも真に受けないの」と恥ずかしがっている。あー、なるほど。そういうとこね。確かに朱宮さんは可愛らしい。人気があるのも頷ける。「姫ちゃんも早く結婚したらいいのに」「えっ? いや、あの……」彼氏がいるのにこの慌てよう。恥ずかしがっているのか?まあ、そういうのも可愛いのだろう。朱宮さんは仕草ひとつとっても魅力的なのだと思う。女性らしさというのか、柔らかい雰囲気が一緒にいて心地いい。隣のテーブルでは、先輩たちが「行け行け」とジェスチャーで伝えてくる。何をどう行けと?だから俺は突破口にはならないって……。でもなんだかこの状況がとても貴重のような気がして、俺はふむと考える。「あ、彼氏仕事に忙しいんだっけ? 大変ねー」「いや、だから……」慌てる朱宮さんに対して、「ふーん。姫乃さん彼氏いるんだ?」と名前で呼んでみた。どうですか先輩、これが突破口ってやつですよ。「おっ、新人。さっそく姫ちゃんを名前呼びとは生意気~!」「ダメでした?」「いいんですか、姫乃さん?」「えっ? いや、いいよ。名前の方が親しみやすいし、仲良くなれる気がするし。ね、大野くん」姫乃さんは嫌がることなくニッコリ笑う。
早田課長は爽やかイケメンタイプで、仕事もできてまわりからの信頼も厚い。とりわけ女性に人気らしいが、男の俺にはその魅力はよくわからない。なんでも、結婚しているのに色気溢れていて、落ち着いた佇まいがいいのだとか。案の定、近田さんが黄色い声を上げている。朱宮さんは……いつもどおりニコニコしている。まあ、俺には無縁の世界だな、と息を吐いたところでふいに名前を呼ばれてそちらを見る。「大野、ちょっとこっちこい」早田課長が手招きするので「はい」と立ち上がった。「おっ、突破口!」いや、違うだろ。ツッコむ気にもなれずとりあえず目で牽制しておく。(先輩だけど)なぜ呼ばれたのか分からないままそちらへ行くと、全員の視線がこちらへ向いた。……ような気がした。「大野、もう少し愛想よくできない?」……いったい何の話だ。そんなに俺、愛想ないかな? そうでもないだろうと彼女たちを見回すと、早田課長に同意の目。「……すみません。これでも愛想よくしているつもりです。結構気をつかっていますよ」いや、本当に。気をつかってるつもりだけどな。早田さんが愛想よすぎなんじゃないだろうか。「えっと、何か飲む?」朱宮さんが聞いてくれたので、あたりさわりもなくビールをいただいた。「はい、どうぞ」「どうも」トクトクと注がれるビール。注ぎ終わると、朱宮さんはニッコリと笑った。
入社して二年目、初めての人事異動でインフラグループに配属された俺は、歓迎会と称された飲み会に参加していた。歓迎会といいつつ、主役は別にいる。インフラグループ長の早田さんが課長に昇進したため、そちらがメインの飲み会だ。軽く挨拶だけ済ませて、あとは静かに座っている。あまり騒ぐのは好きではないし、ちびちびと飲みながら人間観察している方が面白い。たまにおっさんくさいだとかつまらん奴だとか言われるけど、仕方ない。これが俺なのだから。インフラグループには、社内でも美人で有名な朱宮姫乃さんがいる。インフラに異動が決まったとき、まわりから羨ましがられたっけ。確かに綺麗な人だとは思う。いつもニコニコしていて人当たりもよく、仕事もできる。美人なのに可愛い系? ふわっとした雰囲気がそう見えるのだろうか。ちょっと抜けてるとこもある、と俺は思う。つい守ってあげたくなるタイプというのは、こういう人のことをいうのかな。「姫ちゃんあっちの席かぁ」「いつもあの二人に守られてるんだよな。ガードが堅いわ」同じテーブルの先輩たちが、残念そうに言う。俺は通路を挟んだ隣のテーブルを見る。朱宮さんを囲うように、パート社員の本橋祥子さんと派遣社員の近田真希さんが、楽しそうにしゃべっていた。確かに、あの二人に守られてる感あるな……。「ちょっと大野、あそこ混ざってこい」「……僕ですか?」「俺らじゃ無理。きっかけ作ってきて」……って言われても。きっかけって、あれか、あのガードを外して姫乃さんをフリーにさせる、みたいな? んで先輩たちが乗り込む、的な?「……ガード、堅すぎません?」「だから突破口開いて来いって」「いやいや……」ひよっ子の俺に何をさせようとしてるんだ、この人たちは。ニヤニヤしていて、完全に俺で遊ぼうとしている。意地悪な先輩だ。そのとき、すっと違和感なく彼女たちの輪に入っていく人物がいた。早田課長だ。
「はぁー」帰りの電車の中、思わずため息が漏れた。彼氏って、どうしたらできるんだろう? ガラス越しに映るカップルをチラリ盗み見しながら、私はまた大きく項垂れる。 世の中にはこんなにもカップルで溢れているのに、私はいつになったら彼氏ができるのだろう? もう一度ため息が出そうになったとき、タイミングよく電車が揺れ、私はバランスを崩して目の前のガラスへ頭をぶつけた。「いたっ!」鈍いゴチンという音と私の小さな悲鳴は、一瞬のうちに電車内の乗客の視線を集める。恥ずかしさと痛さで頭を押さえながら、隠れるように慌ててうつむいた。「大丈夫ですか?」ふいに声をかけられ振り向くと、そこには心配そうに覗き込む大野くんがいて、驚きのあまり心臓が跳ねた。「……だ、だいじょうぶ」と言ってみたものの、知り合いに見られていた羞恥心で一気に顔が赤くなるのがわかる。「お、同じ電車だったんだね」「姫乃さん案外どんくさいですね。飲み会中、なんか無理してる感ありましたけど、悩み事でもあるんですか?」悩み事ならあります! と心の声が叫んでいるけれど、“どうしたら彼氏ができるのか”なんて事を大野くんに言えるはずがなく、私は愛想笑いを浮かべた。「えっ? いや? ないよ。大丈夫。ちょっと飲み過ぎたのかなー? えへへ」「じゃあ彼氏に迎えに来てもらえばいいじゃないですか?」愛想笑いでごまかそうとしたのに、大野くんはしれっとした顔で心臓に悪いことを言う。「えっ、うん、そうかな? そうだよね? でも忙しいかも?」上手く受け答えができず、しどろもどろになってしまう。 ちょうど駅に到着するアナウンスがあり、私はそそくさと降りる準備をした。「私、駅ここだから、じゃあね」「俺もここです」「えっ?」扉が開くと同時に大野くんが降りる。私もその後を追うように、急いで降りた。 「姫乃さんって最寄り駅ここでした?」 「うん、最近引っ越したんだ」 「ふーん」 電車を降りて改札口まで一緒に歩く。 そこで別れるものだと思っていたのに、大野くんは私の帰り道と同じ道を歩いていく。歩道には桜の木が植わっていて、満開の桜が風に揺れている。 「大野くん家こっちなの? 方面一緒だね。全然気付かなかったなぁ」 といっても、私はまだ二週間前に引っ越してきたばかりだ。近所の事はまだよくわかっていないし
私が口を開こうとしたときだった。「ふーん。姫乃さん彼氏いるんだ?」大野くんの言葉に、私は箸を落としそうになった。「おっ、新人、さっそく姫ちゃんを名前呼びとは、生意気~!」祥子さんがニヤニヤとからかい、真希ちゃんがうんうんと大きく頷く。「ダメでした?」「いいんですか、姫乃さん?」「えっ? いや、いいよ。名前の方が親しみやすいし、仲良くなれる気がするし。ね、大野くん」私は大野くんに向けて、にっこりと笑った。別に下の名前で呼ばれることくらい、何ともない。現に大多数の同僚が“姫ちゃん”とか“姫乃さん”と親しみをもって呼んでくれるので、むしろありがたく感じている。「いやー、いいよね。姫ちゃんのその笑顔、癒しだったなあ」早田さんが名残惜しそうに言う。「早田さん、私たちは?」「もちろん、君たちもだよ!」真希ちゃんが不満げに言うと、早田さんはすかさずフォローして明るく笑った。そんなこんなで、和気あいあいとした飲み会は宴もたけなわのうちにお開きになった。祥子さんと真希ちゃんと駅で別れ、私は一人電車に揺られる。今日もまた、“彼氏と別れました”と打ち明けられなかった。 このまま私は、彼氏がいると勘違いされつつ結婚適齢期を逃してしまうのだろうか。ていうか、アラサーの時点ですでに結婚適齢期は過ぎているのかもしれないけど。死ぬまで一度も彼氏ができずに、そのままおばあちゃんになってしまうかも。ああ、その前に嘘がばれて会社に居づらくなって、仕事も辞めることになったりして?考えれば考えるほど、よくわからないネガティブな思考になり、項垂れていく。
「大野、もう少し愛想よくできない?」早田さんの言葉に、大野くんはゆっくりと私たちを見回す。「すみません、これでも愛想よくしてるつもりです。結構気を遣ってますよ」物怖じしない貫禄っぷりに感心する。私が入社したての頃は、もっと先輩にペコペコしてたっけ。「堂々としてるわ~」祥子さんも感心したように呟き、私もそれに同調して頷いた。「えっと、何か飲む?」「じゃあビールを」「はい、どうぞ」私は空いている綺麗なグラスを大野くんに手渡すと、まだ残っているビール瓶を探して注いであげた。「どうも」淡々と受け答えする大野くんに、真希ちゃんがボソッと呟く。「姫乃さんにお酌してもらって喜ばない男、初めて見た」「はあ?」「確かに。ほら見て、あっちのテーブルのおじさんたちは羨ましそうにしてるわよ」祥子さんが指差す隣のテーブルでは、年配の男性陣がみんなこちらを見ている。「さすが姫ちゃん」「ちょっと、祥子さん、そんなわけないでしょう。からかわないでください」何だか急に恥ずかしくなって、私は慌てて否定する。お酌くらいで羨ましがるとか、意味がわからない。きっとみんな、大野くんを見ていたと思うの。「なるほど」「ちょっと、大野くんも真に受けないの」大野くんまで感心したように頷くので、私は居心地が悪い。「姫ちゃんも早く結婚したらいいのに」「えっ? いや、あの……」「あ、彼氏仕事に忙しいんだっけ? 大変ねー」「いや、だから……」突然の祥子さんからの話題に、私は心臓が跳ねる。そういえば今日こそ“彼氏と別れた”って言おうと思っていたんだった。 今こそチャンスじゃない?
「姫ちゃん安心して。今は産休取りやすくなったし、いつでも結婚出産できるわよ」祥子さんは先程とはうって変わって、キラキラとした目で私を見る。なんだか期待されているようで、落ち着かない。「あの、そのことなんですけど、実は……」彼氏と別れた――と言いたかったのに、突然肩を叩かれて、私は飛び上がるほど驚いた。「ねえ、君たち、今日はお祝い会なんだけど、女子会になってない?」見上げれば、私の肩に手を置く早田さんが、爽やかに微笑みながら立っていた。「きゃあ、早田さん! 違います、いなくなって寂しいって話をしてたんです」真希ちゃんが慌てて否定し、祥子さんと私もうんうんと頷く。「ほんと? 厄介なやつがグループからいなくなって嬉しいんじゃないのー?」「まさか!」「ははっ、僕はちょっと寂しいな。皆と仕事するの楽しかったから。ねえ?」そう言って、早田さんは目配せをした。 私はそれに合わせて軽く頷く。「でも課長として同じフロアにはいるから、またよろしくね。あとは新人の教育は任せたよ」早田さんはもう一人の主賓、大野くんを顎で指す。大野くんのまわりに人はいるものの、大野くん自身はひとりしっぽりと過ごしていた。寂しそう……ではないかな。あまりはしゃがないタイプのようで、楽しいのか楽しくないのか表情からはよくわからない。「それなんですけど、大野さんなんか怖いんですけど」真希ちゃんがズケズケとものを言い、早田さんは苦笑いをした。「そうだね、ちょっと無愛想だよね。大野、こっちこい」早田さんが呼ぶと、大野くんは返事をして表情ひとつ変えずにこちらに来た。 私よりも四、五歳くらい若いのに、いつもクールで落ち着いている。